ゆ 「おい」
い 「なんだ」
ゆ 「ここはどこだ?」
い 「湖だろう」
ゆ 「どこの湖だ?」
い 「空気がうまいな、すがすがしい気分だ」
ゆ 「俺は凄くモヤモヤしているぞ」
い 「何故だ?」
ゆ 「ここがどこだか分からないからだ」
い 「見ろ、魚が水面で跳ねているぞ」
ゆ 「へぇ、鯉がいるのか。ずいぶん元気だな」
い 「ゆば、あそこの岩にとまっているのはなんという鳥だ?」
ゆ 「あれはシジュウカラだな。それとあれは岩じゃなくて亀の甲羅だ。あとお前は人の話を聞いたほうがいいぞ」
い 「ところでゆば、実はこの湖に来たのには理由がある」
ゆ 「この湖がどこの湖なのかは知らないがその理由とやらは是非とも聞かせてもらいたい」
い 「実はこの湖にはとある言い伝えがあってな」
ゆ 「言い伝え?」
い 「うむ、なんでもこの湖にはなんと神様が住んでいるらしいのだ」
ゆ 「あー、よくある話だな」
い 「そしてある場所から供物を湖に投げ入れると神様が現れて願い事を叶えてくれるというのだ」
ゆ 「そんな童話がなかったっけ?」
い 「で、ある場所というのは今立っているこの場所なんだ」
ゆ 「なるほど、それで湖のど真ん中にいるわけか」
い 「問題はその供物なのだが、これが少々厄介なのだ」
ゆ 「なんなんだ?」
い 「伝承では『暖かい五人家族』とされている」
ゆ 「用意しろというならお断りだ」
い 「案ずるな、用意なら既にしてある」
ゆ 「お前、もしかしてあそこに浮いている舟……」
い 「いかにも、この近所に住む鈴木さん一家が乗っている。連れてくる途中で暴れるので少し眠ってもらっているのだ」
ゆ 「今すぐ家に戻して差し上げろ。その手刀のジェスチャーもやめろ」
い 「因みに鈴木さん一家は誰一人として血が繋がっていないが、いちおう皆同じ町内で暮らしている」
ゆ 「近所の鈴木さんの寄せ集めじゃねぇかこの鬼娘」
い 「まぁまぁ、そう怒るな。いまのは軽いジョークだ」
ゆ 「そうか、それはよかった。じゃあ俺は用事を思い出したので帰らせてもらう」
い 「待て待て待て」
ゆ 「なんだよ」
い 「そう慌てるな、供物が用意してあるのは本当だ」
ゆ 「こんどは田中さんか?」
い 「そうじゃない、伝承にある『五人家族』とはおそらく父、母、兄、姉、赤ん坊のことだ」
ゆ 「やっぱり人身御供じゃないか」
い 「話は最後まで聞け。つまりこれは片手の指のことだ」
ゆ 「暖かい、手?」
い 「そういうことだ。いくら私でも願いを叶えるために他人を犠牲にはせん」
ゆ 「まったく信用ならないがそれはよかった。ってよくない!」
い 「何故怒鳴る」
ゆ 「そんな言い伝えを信じて自分の手を切り落とそうとする馬鹿女がいるからだ!」
い 「そんな奴がいるのか」
ゆ 「今俺の目の前にな」
い 「私が? 何故?」
ゆ 「さっき自分で言っただろう」
い 「私の手を切るとは言ってない。切るのはお前の手だ」
ゆ 「お前さっき他人を犠牲にしないとか言ってなかったか?」
い 「うむ、お前は私の友人だ。他人ではない」
ゆ 「なおのこと悪いわっ」
い 「だめか?」
ゆ 「当たり前だっ!」
い 「そうか……ならば仕方ないな」
ゆ 「大人しく諦めろ」
い 「ゆば、お前のバッグの中にある水筒を渡せ」
ゆ 「ん……ほらよ」
い 「それとゴム手袋」
ゆ 「そんなもん持ってないぞ」
い 「入れといた」
ゆ 「いつの間に……」
い 「ちょっと口のトコ広げて持っといてくれ」
ゆ 「こうか?」
い 「そのまま、熱いから気をつけろ」
ゆ 「……おい、この赤いのは」
い 「生き血。あっ、おい、何をする」
ゆ 「そんなおぞましいもんを勝手に人の水筒に入れるな!」
い 「本気にするなっ、ただのトマトジュースだ」
ゆ 「お前が言うと洒落にならん……」
い 「いいから続けるぞ……よし、こんなもんか。ゆば、手袋の口を縛ってくれ」
ゆ 「ん、よっ……と」
い 「よし、湖に投げろ」
ゆ 「ひょっとして、これが供物の代わりか?」
い 「そうだ。いいから早く投げろ」
ゆ 「……ばちがあたっても知らんぞ、そらっ!」
い 「大丈夫だ、そのためにお前に投げさせた」
ゆ 「くっ、この外道……」
い 「しっ……なにか来るぞっ」
ゆ 「あん? いったい何が来るっとぉぉぉ!?」
い 「ははは、水もしたたるいい男だぞゆば」
ゆ 「ぬぁぁ冷てぇぇ」
神 「供物を捧げたのはお前か?」
い 「おぉ、湖の神とは巨大な亀だったか」
ゆ 「うぅ……寒い」
い 「落ち着けゆば、湖の神が出たぞ」
ゆ 「んぁ? ぅおっ、でかい亀っ」
神 「供物を捧げたのはお前か?」
ゆ 「投げたのは俺だが発案者はそっちの馬鹿だ」
神 「そうか。では娘、お前の願いを叶えてやろう」
い 「特に無い」
神 「……なんだと?」
い 「私は湖の神とやらを見てみたかっただけなので願いはこいつに聞いてくれ」
ゆ 「お前、そんな目的で人の手を切り落とそうとしやがったのか」
い 「まぁまぁ、結果的に手は無事なんだしよかったじゃないか。ただで願いが叶えられるんだからありがたく思え」
神 「娘の言うとおりだ。さぁ、お前の願いを聞かせてみろ」
ゆ 「んーーーーーーー、無い」
神 「……すまんがもう一度言ってくれんか」
ゆ 「わざわざ誰かに頼んでまで叶えるような願いは持ち合わせていない」
い 「夢の無い男だ」
ゆ 「欲が無いと言え」
い 「同じ事だ」
神 「あのぅ」
ゆ 「ん? まだいたのか、叶える願いは無いからもう帰ってもいいぞ」
神 「いえ、それだと私の立場がないんですが……」
ゆ 「なんだ、神のくせに細かい奴だな」
い 「まぁそう言ってやるな、神にも体裁くらいあるのだろう」
ゆ 「そんなもんか……あ、じゃあこの濡れた服乾かしてくれよ」
神 「それは構いませんが、できればもう少し大きな願いは……?」
ゆ 「うーん、困ったなぁ、ほんとに無いんだよなぁ」
神 「そこをなんとか」
ゆ 「こればっかりはなぁ〜、いろははなんかないのか?」
い 「これといって思いつかんな」
ゆ 「だ、そうだ。すまんが諦めてくれ」
神 「そんな、困りますよっ! 最近は願い事する人もめったにいなくて家計も苦しいんですよ」
ゆ 「どんな神だよ」
い 「そんなに大変なのか?」
神 「はい……神というのは昔から大家族でして、うちには5人の息子と7人の娘がおります。今は上の子4人と妻がアルバイトをしてなんとか食いつないでいます。私はこの湖の神なので他へ働きに出ることもできません。ですからここで一発どーんと大きな願いを叶えて少しでも家族に楽をさせてやりたいんです!お願いします、協力して下さいっ!」
い 「神の給料は歩合制なのだな」
ゆ 「後で聞いてやるから今は黙ってろ」
い 「そうだ、良い事を思いついたぞ。おい神、お前の息子と娘を一人ずつこちらで預かってやろう。そうすれば食い扶持も減るし、子供にとってもいい経験になるぞ」
ゆ 「おいおい、いくらなんでもそんな無茶な」
神 「本当ですか!?」
ゆ 「マジかよ……」
神 「助かります! ちょうど下の二人が神試験で現世暮らしをしなきゃいけないんです!」
い 「神とは資格制だったのだな」
ゆ 「いいから聞いてやれ」
神 「あの、それでは申し訳ないんですが、それを願い事として私に言ってくれませんか」
ゆ 「願いじゃないとダメなのか?」
神 「すいません、そうしないとカウントされないもので」
い 「神も大変だな」
神 「恐縮です。それじゃこのカンペの通りにお願いします」
ゆ 「ん、わかった。えー湖の神様、あなたの息子と娘を一人ずつ僕達に下さい。下さい?」
神 「ふはははは、その程度の願い神にかかればたやすい事よ!お前の願い、確かに聞き入れたぞ!!」
い 「…………」
ゆ 「…………」
神 「それじゃあ、最終的な日取りなんかはまた後日連絡いたしますので」
ゆ 「あっ、おい!……沈んじまった」
い 「はめられたな」
ゆ 「神のくせにせこい事しやがって……」
い 「まぁ過ぎたことはしかたない、今日のところは帰るとしよう」
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