Super Sweet Strawberry☆アスカルビー
第一話、すべては唐突に甘くなる
ガキィッ
俺の振り下ろしたステッキは相手の化け物の巨大なかぎ爪によってきっちりと受け止められた。
やはりこの体は全くと言っていいほど力業に向いていないらしい。
まったく……、悪と戦うための変身で何故にパワーダウンせねばならないのか。
俺は自分よりも遙か下に位置するベンチにぐたっとなっている、この状況をもたらした謎の生き物に非難の視線をやった。
かの生き物は猫によく似たその体を弛緩させて、俺の苦労も知らない様子でベンチに横たわっている。
そう、そもそもはこいつが現れたところから何かが狂い始めていたんだ、当事者にはそれと気づかせぬままに。
「理不尽だー!」
俺の甲高い声がすんだ青空に響いた。
さかのぼること数時間前、その時は俺はまだまだ普通の男子高校生だったはずだ。
慎重は百七十五センチ、体重はほどほど、中肉中背で成績は中の上、学校でも特に目立つポジションにいるわけではない、どこにでもいるありふれた男子生徒、それが俺、章姫飛鳥の基本ステータスだった。
俺は髪の毛を書きながら学校帰りの道を歩いていた。頭の中には今日の数学の授業で教師がイタチの最後っ屁のごとく出していった宿題の面倒くささがぐるぐると渦を巻いており、どうにもまっすぐ家へと帰る気にならない。
季節は春、降り注いでくる日の光はこの上なく温かく、かといって暑すぎない、風もない、どこかの公園へでも行くのには絶好の気候といえた。
俺の足は特に考えるわけでもなく、家の近くの児童公園へと向いていた。
こんなことになると知っていれば、決して行くことはなかっただろうに……。
児童公園は三十メートル四方程度の広さがあり、かつ遊具は少ない。小さい頃はボールを持ってきて友達とよく日が暮れるまでドッジボールをしていた気がする。
その頃はひたすら広い公園だというイメージばかりがあったが、高校生になって久しぶりに訪れてみたところで広いものは広い。
ちょっとした球技を楽しむのには十分な広さが相変わらず存在している。
その公園には、だが今は不思議と人影がなかった。こんな春の昼下がりに公園に誰もいないなんて、珍しい。
珍しい、が、俺が一人ぼーっとした時間を過ごすのにはこの上ない条件だ。
ラッキーと思った俺は、とりあえずベンチに鞄を置くとそれを枕にごろりと寝転がった。
すんだ青空には数えるばかりの雲が浮かんでおり、柔らかな日差しが俺の顔をなでる。
白い雲は春風の流れるままに自由気ままに泳いでいき、何にも縛られることはない。
こんなところで寝ころんでいると宿題や勉強なんてどうでもいいものに思えてくるものだ。
雲を羨みつつ俺は暫く惚けていた。
不意に穏やかな空気が破られるまでは。
“それ”は唐突に現れた。
仰向けになって空を眺めていた俺の、その真上。青空を背景に小さな雲がちぎれて流れたかと思うと、唐突にそこにはそれがいた。
ほんの一瞬前までは何もなかった空間に、羽の生えた猫のような生き物がいた。正確には、宙に浮いて、いた。
そうとしか言いようがなかった。
俺が驚きに目をこするよりも早く、その猫のような生き物は虚空から打ち落とされたかのように不自然に姿勢をゆがめると、自然にはあり得ない初速度を持って俺の方へと落ちてきた。
「おっと」
よけても良かったのだが受け止めたのは俺の単なる気まぐれ。とっさに起きあがるとその猫(もどき)を手で受け止めた。
はじめに見えたときは全体にピンクがかっているのかと思ったが、元々は薄黄色の体をしているようだった。その体を薄紅に染め上げているものは、どう見ても血だった。受け止めた俺の手にぬめっとした感触が伝わるとともに、鼻に鉄のにおいがとどく。全身至る所を怪我しているようで、血の付いていないところはほとんど無い。首にペンダントのようなものを下げているのが見えたが、それにも金属である鎖の至る所に血がこびりついているのが見えた。
そのボロボロの猫がパチリと目を開き、俺と一瞬目があう。
普通の猫のような、遊ぶことばかりを考えている眼はも異なる、知恵あるものの視線だった。
俺が不思議に思うまもなくその猫は口を開いた。
「早く逃げろ!」
「は?」
口から間抜けな声が出てしまうのも無理はないだろう。なんせ、猫が喋ったのだから。
しかし、その猫は俺の驚きなど全く意に介さない様子で、
「逃げろと言っている。急がないと、ヤツが……」
言っている途中で猫は何かを感じたのか背後を、つまりこの場合は俺が腰掛けているベンチの上空を見上げる。
釣られて上げた俺の視線の先で不意に、ガラスが出現して屈折率が変わったかのように空がゆがんだ。
「っ、もう来たか!?」
そう言うと猫は俺の腕の中でよろよろと立ち上がって、その翼をはためかせた。が、一センチも浮かぶまもなく再び俺の腕に崩れ落ちる。
「おい、無理するなよ。ひどい怪我をしてるんだから」
この猫が喋る、と言う奇妙奇天烈理解不能な事態はひとまず置いておくにしても、猫の怪我はぱっと見て尋常ならぬことがすぐにわかる。
「しかし、私がこの場を離れなければ、お前が危ない……、のだ」
息を切らして苦しそうに猫が喋る間にも、空のゆがみが大きくなっているのが俺の視界の端に映る。
俺は猫の様子を見て、それから空に浮かんだゆがみを見て、もう一度猫を見てから言った。
「とりあえず、あのゆがんでるのから逃げればいいんだな?」
猫が肯定も否定もしない間に俺はぱっと立ち上がると、猫を抱え直して駆けだした。
「待て、一緒に逃げるとお前まで狙われる! 逃げるなら私をあの場に置いて、お前だけ逃げろ!」
「それで、その後どうなるんだ? 俺は安全に逃げて、公園では何故の生き物が死にましたとさ、ってか」
俺は走りながら、腕の中で身をよじっている猫に話しかける。すでに猫と話をしていると言うことなど些細な問題として頭からはじき飛ばされていた。
似合わないとわかってはいながらもウィンクを一つして、猫に向かって笑って言った。
「後味悪いの、嫌いなんだよ」
ひょっとしたら、俺はこの猫が持ってきた非日常のにおいに惹かれていたのかもしれない。剣や魔法が重要な役割を担うかもしれない世界、冒険が繰り広げられる世界、そんな、日常とは乖離した世界に。
後から思い返してみたらそんな憧れは全く持ってお門違い、ロクでもない世界に他ならなかったわけだが、このときの俺はそんなこと知るよしもなかった。
視線を感じて振り返る、なんて現象は今まで単なる自意識過剰が引き起こすもの、或いは単なる偶然だと思っていた。見ることだけで相手に何かが伝わったりすることなんて無いって。
だけど、あまりに濃厚な気配を持つ存在に見つめられると、確かに視線は感じるのだ。なんせ俺は今それを自らの身を以て体験しているのだから。
走り出して数秒、公園の出口まではまだたどり着けていない。が、背後から槍で突き刺されたような感じにあい、俺は立ち止まらざるをえなかった。
進まなきゃいけないと頭ではわかっているのに動けないのは、圧倒的な存在感を感じての恐怖の所為か。足がすくむと言うよりは、体がすくむ。
きりきりという音でも聞こえてきそうな、錆びた機械のようなぎごちない動きで首が後ろへ回る。
「う……、な、」
なんだ、あれ?
その言葉さえ上手く紡ぐことが出来ない。
決して気が弱いつもりはなかったのだが、目の前の常識はずれの物体を見るとどうしてもまともに動ける気がしなかった。
身の丈にして三メートルほどだろうか。人型をしてはいるものの、その四肢を含め全身は日の光を浴びてなお闇の色をした漆黒の毛に覆われており、およそ普通の生き物と見て取ることは出来なかった。
犬と熊を足して二で割ったような頭からは禍々しく捻れた角が二本のびており、双眸と、眉間にさらにもう一つの瞳、計三つの瞳が赤々と鋭くこちらを睨んでいる。
極めつけには蝙蝠にも似た膜のような羽が肩から生えており、その姿はまるでテレビゲームに出てくるデーモンであるとか悪魔であるとか、そんな怪物を思い起こさせた。
「来たか……、」
俺の腕の中で猫が絶望をにじませた声を上げる。
俺の口からはもはやうめきにも似た音が漏れ出てくるばかりだった。
「おい、お前、逃げるんなら逃げろ、私を置いてな。そうすればお前だけは何とか助かるだろう」
猫が言うが、俺は未だ目の前の恐怖に体が動かない。つい先頃までのどこか浮き足立っていた気持ちなど全く消えてしまっていた。
視覚と聴覚ばかりが正常に機能して、目の前のあり得ない現実を俺の脳裏に刻み込み続ける。
目の前の悪魔がその凶悪に伸ばされた爪を振り上げ、無造作に俺の首もとめがけて振り下ろしてくるのが、なんだかコマ送りのようにゆっくり、はっきりと見えた。
あぁ、俺、このまま死ぬかな。
人は死ぬ直前にこれまで生きてきた人生の風景を馬で駆け抜けるように見るのだという。その走馬燈を、俺は見ることはなかった。
走馬燈を見なかったのは目の前の悪魔に目が釘付けになっていたから何だろうが、結論から言えば俺は走馬燈を見る必要はなかった。
今にも俺の命が刈り取られようとしていたとき、猫の首に下がっていた金属の首輪から出た強烈な紅い光が俺の視界を埋め尽くした。
……なんだ……?
視界を埋め尽くした紅が徐々に退いて行くにつれて、俺の思考もだんだんと元に戻ってくる。
一度赤色の光に埋め尽くされたことで恐怖ですくんでいた体もどうにか元に戻ったようだ。手を握ろうと思えばグーを作ることも出来るし、再び開くことも、或いはチョキの形を作ることも何の苦も無くできる。
と、そのような他愛のないことを暫くやって気づく。
あの化け物はどこへ行った?
そしてここはどこだ?
周りにはぼんやりと薄桃色の空間が茫漠と広がっている。この色はどこかで見たような気がする、と言う感じとともに無意識から口の中に広がる唾液の感覚を覚えて、イチゴミルクの色によく似ているのかと納得した。
「ここは……?」
俺の代わりにその疑問を口に出したのは、腕の中の猫だった。
俺は声のした自分の胸元あたりを見る。
猫は、相変わらず傷だらけの様子でそこに浮かんでいた。
「聞きたいのは俺の方だ。お前の首輪から出た光が原因のように思えたが?」
とりあえず見たところ化け物の脅威はいったん去っているようだ。どこか安心して俺は猫に尋ねる。
これだけの常識はずれの出来事に立て続けに出くわしたのだから、気になる疑問も両手では数え切れない程度にはわいている。
「そもそも、お前は何者でさっきの化け物は何なんだ?」
だが、猫は俺の疑問など聞いていない様子で、
「少年……、名は?」
思案顔で(猫の顔で思案顔だ)、うつむいたままそう呟いた。
俺が声に怒気をにじませて再度訊いても変わらず、
「いいから、名は?」
と尋ねてくるばかりだ。俺の名が一体なんだって言うんだ。
「俺の名は、あすか、章姫飛鳥だ」
音だけ聞くと女の子に間違われかねない名前で、小さい頃はからかわれる材料になるばかりだったため嫌いだったのだが、十五年以上使っているとさすがに愛着もわいてくるものである。
で、その名前が一体どうしたのか、と俺が猫の様子を見ていると、
「あすか、アスカ……、そうか、アスカルビーか」
猫は俺には全く意味をなさないことを呟いて、一人で合点がいったようだ。
俺の方を見上げると、眼に力を込めて言った。
「少年、我らのために戦ってくれ」
「断る」
一ミリ秒の間髪さえ入れずに答えた俺の言葉に、さすがに猫は固まっている。
だが、何を一人で納得したのかは知らないがあまりにも俺に対する説明が少なすぎる。今のままでは何をどうしろと言われても「はい、わかりました」とは言いかねる。俺はそこまで短慮ではない。
「一体何がどうなっているのか説明してくれ。ことと次第によっては考えてやってもいい」
当然だ。さっきこの猫を見捨てなかったことからもわかってもらえると思うが、俺は後味が悪くなるようなことは基本的に嫌いだ。ここまで首をつっこんでおいて、やばいことがわかったから今までのはナシ、さようならと帰るような薄情者ではないつもりだ。
猫も思い直したように、今度は起用に腕を組んでしゃべり出した。
「それもそうだな、まずは説明をせねばな。私はアルト、甘王朝(かんおうちょう)第百三十七代王甘王様にお仕えする使い魔のようなものだ。そして先ほどの化け物は、」
「ちょっと待ってくれ、俺は一応人並みには世界情勢とか知ってるつもりだが、甘王朝なんて聞いたこと無いぞ」
「それはそうだ。君たちの住む世界とは異なる次元に存在する、本来は互いに干渉すべきでない世界に存在する王朝だからな」
「その異なる世界に住むはずの存在が、何故ここにいるんだ?」
俺の問いを宥めるかのようにアルトは両手を上下に動かすと、少ししかめ面を作って続けた。
「それをこれから説明しようとしていたところだ。本来相互不干渉が原則のこの両世界をいっぺんに支配してしまおうと企む不届きものが現れたのだ」
「それが甘王ってやつか?」
「違う。甘王様は断じてそんなお方ではない」
そう言うアルトの表情はかなり大きくしかめられている。主を侮辱された怒りからだろうか。
とはいえ、俺には甘王という王様以外向こうの世界の住人の名前は知り得なかったのだから。
「だから、これから説明しようとしていたのだ。焦らずに聞け」
アルトは器用にも狭いことで有名な猫の額にしわを寄せて喋り続ける。
「その不届きものの名はクランベリーと言ってな、甘王朝の隣国、ベリー王国の王なのだ。はじめはさほど大きな動きでなかったから気にとめるものは少なかったのだ。向こうは戦乱というものが珍しくない世の中でな、ベリー王国が領土拡大をもくろむ侵略戦争を多少増やしたからと言って不自然はなかった。甘王朝はちょっとやそっとでは揺るぎのない力を持った大国であったので、他国ならいざ知らず我らが王宮は泰然としていたのだ」
「だけどそれは虎が猫の皮をかぶっていただけだった」
我知らず漏れた俺のつぶやきにアルトはよけいに苦い表情になる。図星だったのだろう。
当然だ。ちょっとでも頭の回る権力者が勢力拡大を狙うなら、はじめから大国に睨まれるような愚かなまねは決してしない。周りの国に徐々に支配の枝を伸ばしていき、着実に力を付けていく。そして大国に立ち向かえるような力が蓄えられた暁には、どーん。一気に勢力の逆転をはかるわけだ。
俺の考えていたことそのままが甘王朝の周辺でも起きたのだ。アルトの説明はそう語っていた。
気がついたときにはすべてが遅すぎたのだ、と。
「とは言っても甘王朝も大国、一筋縄ではいかない。我らの方が不利ではあったが戦は長期化しつつあったのだ。そして、甘王朝が疲弊してきた頃に、斥候が恐ろしい情報を手に入れてきた」
アルトがそこで一瞬の間をおく。
その情報がなんなのか、俺にも容易に推察できた。この流れで重要な情報を言うと、
「そう、クランベリーの両世界支配構想だ。便宜的にこちらの世界を人間界と呼ぶとすると、クランベリーは我々の世界のみならず人間界へも侵略する計画を立て、人間界へとわたる方法を着々と研究していたのだ。そして、その研究の成果が上がったらしいと言う情報を我々はつかんだ」
なるほど。あの化け物はその研究成果でこちらへと送られてきたと言うことか。
だが、アルトは? その研究成果はクランベリーの陣営のものであるはずだ。同様の研究が甘王朝で行われたとは考えがたい。仮に行われたとしてもベリー王国と同時期に完成を間に合わせるなど常識的に不可能だ。
俺の目から発せられる疑問を受けて、アルトがさらに説明する。
「私が来たのは、クランベリーに対抗する勇者を捜すためだ。実を言うと、甘王朝の開祖はこちらの世界の人間だったらしい。戦乱の最中にある陣営によって向こうの世界へと召還されたそうだ。召還の方法を編み出した人物については謎とされているのだがな。開祖は、それは勝利の女神のごとき活躍で敵軍を蹴散らし、味方に数々の勝利をもたらしたそうだ。しかし開祖を召還した陣営の指導者が流れ矢に当たって死んだそうでな、その後継者に開祖がたったというのが甘王朝の始まりと言われている」
「それで、同じように訳のわからない強大な力を持っていそうな人物を捜しにわざわざこっちの世界まで来たわけか」
「そうだ。甘王朝開闢当時の遺跡がまだ生きていることがわかったのでな」
「なるほど、だが俺にその役を頼むのは少々お門違いだと思うぜ」
なにせ、俺は武術の心得があるわけでも超能力が使えるわけでもない。そもそも勝利の神のような勝ちっぷりをもたらすことの出来る人間など、平和な現世にまだ存在しているとはとても思えない。
「いや、そなたこそが適役なのだ。この『紅き勲章』に選ばれたのだから」
そういうと、アルトはおもむろに首から提げていた首飾りを外した。
俺はそれを見て一瞬目を見張った。先ほどまでは鎖についていたのは何かの金属の意匠だったはずだが、今はそこには丸みを帯びた逆三角形のような赤い宝石が輝いていた。
無意識のうちに左手が動いてその飾りを受け取っていた。
ちょうど、ブレスレットとして手首に付けておくのが良さそうな大きさだった。
「この『紅き勲章』の力を引き出せる資格者が、私の探していた勇者なのだ」
俺は手のひらの上で輝いている紅い宝石をまじまじと見つめる。
紅い、丸みを帯びた逆三角形はどこか苺を思い起こさせた。
「最初にやたら名前を確認していたのは何故だ?」
「え、」
俺が何気なく口にした問いに、目に見えてアルトが固まる。
最初に名前の確認をしたこと、それもなみなみならない確認の仕方だった。
そして、思い出されるアルトの「そうか、アスカルビーか」という台詞。
「まさか、この石が名前だけで人を選んでいるなんてことはないよな?」
「…………、ない」
「その奇妙な間はなんだ?」
俺が剣幕を荒くして問いつめると、渋々といった感じでアルトは、
「たとえるならば、名前は地区予選のようなものだ。苺に関わりのある名前のものしか資格者にはなれないのだ。だが、資格者の本質というのは別にきちんと条件があるわけで、決して名前だけで判断されると言うことはない」
力強く断言した割には視線がずっと宙を泳いでいる。
「その台詞、俺の目を見てもう一度言えるか?」
「……多分」
アルトのあごを指で押し上げて眼をのぞき込んでみたのだが、いっかな目を合わそうとしない。
まあいい、そこは実際本質ではない。
それより問題なのは、
「契約をしたら、あの化け物に対抗できる力が手に入るのか?」
「恐らくは。なにせ千年以上前の話だ。詳しいことはわからないというのが現実だ」
「で、この契約、俺に拒否権はあるのか?」
「ない。拒否するならこの空間に半永久的に閉じこめられるだけだ」
アルトはさらりと恐ろしいことを口にする。
「この空間は、では一体なんなんだ?」
「今いるこの空間は、この紅き勲章が契約のために一時的に作り出している空間にすぎん。恐らく現実世界とは時間の流れが切り離されているな。契約さえ済めばこの空間は消え、さっきの公園に再び戻ることになるだろう」
「そうか……」
あの化け物と戦うというのも気が進まないが、ここに閉じこめられる、というのはそれはそれでぞっとしないな。
となると……、
「アルト、契約はどうすればいいんだ?」
俺はその言葉を口にしていた。
常識の世界を飛び出す、冒険の世界への直通パスポート。
俺の言葉を聞いてアルトが顔をほころばせる。
「『紅き勲章』を身につけ、唱えるんだ。『目覚めよ、紅き宝玉の力よ』とな」
アルトのその言葉を聞くと、俺は一瞬の迷いも無く紅き勲章を腕に着けた。
ブレスレットのごとく俺の手首に紅い宝石が輝く。
すっとまぶたを降ろし、息を吸うと一気に言った。
「目覚めよ、紅き宝玉の力よ!」
言い切った瞬間に手首が熱くなるのを感じた。紅き勲章から何かに力が流れ込んできているのがわかる。全身の血が煮えたぎるように熱くなる。
同時に、周りの薄紅色がすぅーっと退いていくのを感じる。この空間が壊れだしているということだろう。
俺の視界も次第にぼんやりとしてきて、意識が薄くなっていく。
「がんばってくれ、我らが勇者、可憐なる苺の戦士アスカルビーよ」
薄れていく意識の中で、聞き逃しならぬ台詞を聞いた気がした。
視界は突然に開けた。
目の前には青く澄んだ空がどこまでも広がっている。
「ここは、!?」
どこだ、とつぶやきかけた俺は、慌てて手で口を押さえる。
俺の発した声はとても自分ののどから出たとは思えない、鈴のような可愛らしい声だったからだ。
更に続けて気づく。口に当てているその手が俺の手とは似てもにつかない小さな手になっていることに。さらには、愛らしく苺で飾られた、肘までもある手袋に覆われているのだ。
驚きはそれだけでは終わらない。一陣の風が吹き抜けスカートをハタハタとなびかせながら、足下、ふくらはぎ、太ももまでをも風がなでていき、顔には長い髪の毛がかかる。
もはや確認するまでもないと思いながらも、両手がおそるおそる胸元へと動く。
ぽよっ
およそあり得ない手応えを返してくる胸元は、慎ましくふくらんでいる。
たっぷり十秒ほど思考が停止する。
俺は、女の子になっていた。
「なんでだー!?」
叫んでしまうのも無理からぬことだろう。
だが、直後に俺は自分が叫んでしまったことの不覚を悟る。
俺が叫んだ直後に、足下に強烈な気配が生まれた。
ぞくっとなる感覚とともに見下ろすと、俺は地面から十メートルほどの所に浮いていて、地面には例の化け物がこちらを見上げる姿があった。
「キシャーーー」
化け物はわけのわからない奇声を上げると、肩から生やした翼をばさりと動かす。
そりゃ、あんな翼付けてたら、当然。と言う俺のいやな予感が的中し、化け物は悠々と離陸した。
俺の真下から一直線に上昇してくる化け物。
まずい、避けないと。後ろへ。
と思ったら体がすっと後ろへと移動していた。なるほど、空は自由に飛べるらしい、これは便利だ。
ふっと後ろに下がった勢いでツインテールがクルンとなびいて俺の視界に左右から入ってくる。何故ツインテール、と思うまもなく、俺と同じ高さまで上がってきた化け物がそこで止まり、こちらの様子を見た。
相手の深紅の瞳を俺はじっとにらみ返した。
「アルトぉっ!」
相手から視線は外さないまま、俺はアルトの名を呼んだ。
せめて武器がないことには、丸腰ではどうにもこんな化け物相手には戦えない。
「どうした、アスカルビー」
どこから聞こえてくるのかは知らないが、アルトの声が聞こえる。どことなく苦しそうなのは、やはり先ほどの大怪我の所為だろう。
「その名前とか、なんで女になってるかとかはともかく置いておこう。俺に武器とか無いのか?」
「武器か……? 念じたら何か出てくるのではないか?」
そうこうしている間にも、化け物は間合いを計って動き出そうとしている。
念じると出てくるだと。
武器、武器、格好いい武器。刀か、槍か……、まてよ、俺って今さも魔法少女のような格好をしているのか。
とよけいな思考が混ざったのがまずかった。
化け物が不意にこちらへ飛びかかってきた。鋭いかぎ爪は、ちょうど紅い光に飲み込まれる直前と同様に首元へ向かって一直線にのびてくる。
武器、武器、……魔法ステッキ!?
その単語が頭に浮かぶのと同時に、俺の手の中には魔法少女にうってつけのファンシーな意匠を凝らしたステッキが現れていた。
ガキィッ
間一髪のタイミングで化け物のかぎ爪を魔法ステッキが防ぐ、がその勢いまでは殺せずに、俺は数メートルをはじき飛ばされた。
「ったく、なんて馬鹿力してるんだよ」
ステッキを持つ手はじんじんとしびれている。
俺はステッキを両手で持ち直すと、化け物に殴りかかった。
が、俺の振り下ろしたステッキは化け物の巨大なかぎ爪にきっちりと受け止められる。
ふと視線をおろすと、地面のベンチでぐったりとしているアルトが見えた。
「理不尽だー!」
俺は叫ぶが、助けは望めそうにない。
対して、相手の化け物は笑みを浮かべているように見える。
化け物が腕をぐっと振ると、俺は体ごと吹っ飛ばされる。
いったん距離を置くも、もう相手は俺を片づける意志を決めたらしく、間髪入れずに距離を詰めるとかぎ爪を繰り返し繰り出してくる。
キン、キン、キンッ
かぎ爪とステッキを交える回数を“合”で数えた人間は過去にはいないだろうが、俺と化け物はそうやって二十合くらいは刃を交えた。とは言っても俺が一方的に防御しているだけだ。
俺は化け物が大きく振りかぶった一瞬の隙をついて大きく退いて、距離を開けた。
さっきまで俺がいたところでは化け物が大きく空振りをしてバランスを崩している。
「はぁっ、はぁっ」
息が切れてる。やっぱりこの体になって大幅に体力が落ちてるな。
勇者に変身して戦闘能力が落ちるなんて、絶対おかしいだろう。
そう思って額の汗をぬぐい、顔を上げると、目の前にヤツがいた。
「んな!?」
「グルァァッ!」
どうやら俺の予想を遙かに上回るスピードでバランスを取り直してきたらしい。
舌打ちするまもなく、化け物のかぎ爪が俺に頭上から襲いかかる。
ギィン、
耳をつんざくいやな音が高らかに鳴り響いた。
とっさにステッキで受け止めたはいいが、ストレートに食らってしまったので勢いを全く殺せずに俺は地面に向かってまっすぐたたき落とされた。
落下の感じもしないうちに地面にしたたかに打ち付けられる。
「がほっ」
悲鳴にすらならない声が口から漏れる。背中を強打した。骨が折れた感じがないのは幸いだが、衝撃で暫く動けそうな気はしない。
落ちた姿勢が仰向けになっていたため、自分の上にたたずむ化け物の姿がよく見えた。
あいつはこのまま降りてきて、俺にとどめを刺そうとするだろう。
このままじゃ負ける。あいつを倒せない、か。
その後世界はどうなるんだろうな。クランベリーに支配されてしまうのかな。その世の中はどうなるんだろうか。
そんな疑問が、今度こそ走馬燈のように俺の頭を駆けめぐる。
「アスカルビー、あきらめるのはまだ早い」
不意に聞こえてきた声に首を巡らせると、俺のすぐ右には例のベンチがあり、アルトがそこから俺を見下ろしていた。
ぐったりとしていて顔には力が入っておらず、こいつはこいつで相当限界に見える。それでもなお俺に言葉をかけるこいつは、一体何を背負っているというのか。
決まっている。世界の未来だろう。
「まだ、キミは紅き勲章の力を半分も出し切っていない。苺の加護があれば必ずあの程度の敵は倒せる」
そう言うけどな、あいつ強いんだぞ。
俺は声に出さずに思う。
上空ではなにやらヤツが姿勢を変えて、かぎ爪をこちらへと向けている。さては、落下しながらの攻撃で一気に片を付けるつもりか。
へっ、痛そうじゃないか。
「って、そんなのいやだよ」
そう。こんなところで終わってたまるかっての。いきなりわけのわからない女の子の体にされて、そのまま死ぬって?
冗談じゃない。
俺の決意に答えてか、手の中でステッキがトクンと脈打った気がした。俺は手の中の魔法ステッキに力を込めた。
その意志に呼応するかのように、魔法ステッキが純白に輝き出す。
はじめはぼんやりと光る程度だったものがどんどん増して、正視できないほどの強い輝きとなった。さらには先端部分が細くとがっていき、ステッキ自体が一本の槍のようになる。
ステッキを持つ手からエネルギーが伝わってくる。強く、ただひたすらに強い鼓動と力を感じる。俺の直感は、こいつならヤツを一撃で屠れると言っていた。
「次の一発で、決める」
実際、落下の衝撃で俺の体は今ほとんど言うことを聞かない状態だ。ようやく手が動かせるかと言ったところ。この魔法ステッキ程度なら相手の方へと向けるのは可能だろう。それに、次で決めなければ、イコール俺の負け、イコール死だ。
俺がそうやって最後の一撃の準備をしているのを知ってか知らずか、化け物の方はこちらへ向かってすごい勢いで落ちてきた。
狙うは相手の攻撃のポイント、そこ一点。外したら俺が即死だ。
「このヤロー!」
俺は渾身の力を込めてつきだした光の槍は相手のかぎ爪の先端部分をきれいに捕らえた。
光の先端とかぎ爪の先端、点と点の衝突は一瞬で、ヤツはぶつかった部分からきれいに二つに切り裂かれた。
引き裂かれた端からヤツは灰のように跡形もなく消えていく。断末魔の悲鳴さえ残さずに。
そして、瞬き一つ分の後、ヤツの端から端までが光の槍に引き裂かれて消え去った。
「やったのか……?」
俺は可愛らしい声で呟いた。鈴のように澄んだ声だったはずだが、結構叫んだのと体に衝撃を受けまくったのとで今は掠れてしまっている。
「やっただろう」
アルトが、こいつも力無い声で同意を返す。
「しかし、したたかにやられたものだな。もっとあっさり勝てたはずだが」
「仕方ないだろ、戦い方がよくわからなかったんだから」
俺はそう言い訳をしておく。いや、純然たる事実か。ステッキがあんな力を発揮できると知っていたならもっと早く片づけられたわけだから。
「ところでなぁ、何で俺は女になってるんだ?」
「またおいおい説明するから、とりあえず向こうへ行くぞ」
「え?」
俺が上げた声を無視するかのごとく、俺の腕についている紅き勲章が光を放ち始める。
その光があっという間に広がっていき、俺とアルトを包み込む。
俺の意識は闇に飲まれた。
――続くのか!?
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