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〜1〜

 僕が出会ったその女性は、丘の上で空を見ていた。太陽が昇ってから沈むまで。毎日毎日、空を見上げている彼女の存在はなんだかとても希薄で、今にも消えてしまいそう。僕は、そんな彼女に惹かれていた。
初めて彼女を見た日から1週間ほど経った日のこと。僕は意を決して彼女に話しかけた。
「何を見てるんだい?」
「空が…とても青かったから。ねぇ、ここの空はいつもこんなに綺麗なの?」
彼女は突然声をかけられたにしては驚いた様子もなく、僕を振り返って質問してきた。彼女の顔を初めて正面から見た瞬間、僕は心臓が弾けるような錯覚を覚えた。絶世の美女というわけではない。顔立ちは整っているが、可憐とか妖艶とかそういう類の人ではない。僕の知りうる言葉に、彼女を形容できるものは存在しない。ただ、彼女の双眸はどこか寂しげで、それが僕の心をひどく惹きつけるのだ。ともあれ、僕は緊張しながらも彼女の質問に、なるべくクールに格好良く答えようとした。
「あ、ああ、このあたりは雨が少ないからね。大抵はこんなふうに晴れているよ」
失敗した。よりにもよってドモってしまった。やはり無理は良くない。気楽に、いつも通りに喋ろう。
「確かに空は綺麗だけど、それだけさ。街からは遠いし、電車もバスも日に数本しかこない。」
「でも、空気はおいしいし、川の水は澄みきっている。それに、山にはたくさん動物がいるわ。あんな所よりここの方がよっぽどいいわよ」
そう言って彼女は微笑んだ。僕の心臓がまた弾けそうになる。なんとか平静を装って僕は彼女との会話を続けた。
「君は街に住んでたの?」
「ええ、ここよりずうっと北にあるとても大きな街よ。でも、あそこはあなたが思うような所ではないわ。空は工場から出る煙やガスでいつも曇っているし、川は汚水で満たされてる。通りは浮浪者だらけで、治安なんてひどいものよ。まだ幼い子供でもたやすく拳銃を手に入れられるんだから。あの街で真っ当に生きてる人間なんてほんの一握り。あとはみんなギャングの手先か犯罪者よ」
彼女の言葉にははっきりと憎悪の念がこめられている。僕には、彼女のその姿が意外だった。まるで彼女は人間ではないように感じていたが、彼女も僕と同じ人間なのだとわかって、僕の鼓動は少し落ち着いてきた。
「私は、その街で生まれ育った。だからね、初めてここに来た時はビックリしたわ。私は天国にでも来てしまったんじゃないかってね。」
彼女は微笑むと、その場に腰掛けて再び空に目を向けた。僕も彼女の隣に腰を下ろす。空を見つめたまま、彼女は自分の生い立ちや、街での出来事を僕に聞かせた。それから僕は、景色が夕日で赤く染まるまで、ずっと黙って彼女の話を聞いていた。
ふいに、彼女は喋るのをやめた。彼女は、またあの寂しそうな目をして僕に言った。
「変ね、私。初めて会ったあなたにこんな話を聞かせるなんて。ごめんなさい、今の話は忘れて。」
立ち上がり、去っていこうとする彼女。僕は空を見上げたままで背後の彼女に問いかけた。
「ねえ、いまはどこに住んでるの?」
立ち止まって、振り返る気配。
「まだここに来たばかりなんでしょ? 家族の人とかはいるの? 友達は?」
見なくてもわかった。彼女はまた微笑んでいる。あの寂しそうな目をして。
「家族は、だいぶ前に死んだわ。私は一人で街を出て、今は森の中にテントを張って野宿してる。それと、私には友達はいないわ。街の人は怖い人ばっかりだったし、私には父さんと母さんがいたから」
少しだけ俯く。それでも彼女は微笑もうとしていた。僕は少し、腹が立った。
「じゃあ、じゃあさ、僕を君の最初の友達にしてよ。」
彼女が驚いてこっちを見ている。僕は振り向くことができない。彼女の顔を見てしまうと、きっと僕は黙ってしまう。
「僕の家族も、友達も、みんなと友達になろうよ。みんなで話をして、ご飯を食べて、へとへとになるまで遊べばいい。だからさ…」 僕の顔はもう真っ赤になっている。もう二度とこんなことは言えないだろう。
「だから、そんな無理して笑うことないよ。寂しいくせに、悲しいくせに、笑わなくたっていいじゃないか。泣きたいなら泣こうよ。泣いて、泣いて、涙なんか出なくなるまで泣けばいいじゃないか。そうすればきっと、また心から笑えるようになるから」
半ばやけ気味に言い放った。しばらくの沈黙。そしてそれは、彼女の嗚咽で破られた。僕はゆっくり振り返って、彼女に歩み寄る。
「その…勝手なこと言ってごめん」
僕の言葉に、彼女は首を振る。泣きながら、僕の差し出した手を握り返す。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、嗚咽のためにうまく言えない言葉をずっと繰り返していた。
「あ…りが……とう………あり……がと……う」