[6]質問

 翌日の朝。男が目を覚ますと、香奈が自分の周りをぐるぐると回っていた。仰向けになって浮いているので、男が起きたことには気付いていないようだ。
「おはよう、香奈ちゃん」
やさしい口調で挨拶をする。声をかけられ、香奈はくるりと体を反転させて笑顔を見せた。
「おはようおじさん! 体はもう大丈夫?」
「ああ、おかげさまでね。もうすっかり元気になったよ」
 立ち上がり、両手を広げながら笑顔を返した。
「それじゃあ、お風呂にでも入ったら? その間に蓮を起こして着替えを用意させといてあげる」
 そう言うと、香奈は返事を待たずに二階の蓮の部屋へ向かってしまった。残された男は苦笑し、風呂場に向かって歩く。ぼろぼろで穴だらけの服を脱ぎ、細身の体が空気に晒された。見た目こそ細いものの、その体は一切の無駄が排除された理想的な筋肉の付き方をしていた。だが、それ以上に目を引くのは男の全身に残る種類、大小様々な傷痕だ。男の顔以外のほとんどの場所を埋め尽くしている傷はどれも古いものだが、唯一背中の最も大きな傷だけが、やけに真新しい印象の赤色をしていた。首にかけていたペンダントは外さずに浴室に入り、シャワーを浴びる。少しすると、何かが階段を転がり落ちる音が響いた。

 浴室を出ると、洗面所には綺麗に折り畳まれた藍染の甚兵衛が置いてあった。これでは傷が見えてしまう。二人を怖がらせたくは無かったが、どうせいつかは話すつもりだったので仕方なく着ることにした。男がリビングに戻ると、二人は男の体を見て一瞬驚いたが、すぐにいつもの調子に戻った。 「おはようございます、朝ご飯できてますよ」
何事もなかったかのように告げる蓮に、男の方が驚かされた。今まで彼の体を見た者は、傷の話を聞きたがるか避けるかして、どちらにせよいつもその事を意識していた。ところが、この二人には全くそんな様子は無く、本当に傷のことを気にしていいように思えた。
「おじさん? ご飯食べないの?」
 香奈の声で現実に引き戻された。短く返事をして椅子に座る。蓮がいただきます、と言って食事を始めたので、男もそれに倣った。朝食は白米に味噌汁だけという簡単なものだったが、ダシの効いたワカメと豆腐の味噌汁はなかなかに美味しいものだった。

 朝食が終わったところで、男は自分の仕事を始めることにした。
「さて、二人とも。少し話しておきたいことがある」
 ずっと穏やかに笑っていた男の雰囲気がガラリと変わったことに二人は驚いていたが、男の真剣な眼差しを見て、しだいに蓮の表情も同様になっていく。
「これから私がするいくつかの質問に答えて欲しい。どうしても嫌なら強制はしない」
「分かりました」
「なに? なに? 心理テストかなにか?」
「香奈、少し黙ってて。聞かれたことにだけ答えてくれ」
 蓮が香奈に言い放ち、香奈は不機嫌に頬を膨らませる。少々冷たいかもしれないが、香奈のペースで話してややこしくなるよりはマシだ。男は二人を交互に眺め、まず香奈への質問を始めた。
「では、始めよう。香奈ちゃん、君は幽霊だね?」
「あ、うん。よくわかんないけどたぶんそうだと思う」
「幽霊になったのはいつ頃?」
「なったばっかりだよ、昨日の朝に目が覚めたの」
「では、他の幽霊は」
「全然、ちっとも見えない」
「そうか……蓮くん、君は?」
「見えません、香奈以外は」
 男はなるほど、などとなにやら頷いているが二人には質問の意図がまるで分からない。なにか考えている様子だったが、男はすぐに次の質問に移った。
「香奈ちゃん、言いにくいかもしれないけど、君が死んだ日の事をなるべく詳しく教えてくれないか」  香奈は驚いて、男の顔を見つめたままの状態で固まってしまった。まさかそんなことを聞かれるとは思わなかったのだろう。だが、男の顔はあくまで真剣だった。香奈がうまく言葉にできず黙っていると、蓮が男に提案した。
「おじさん、それなら僕が話します。僕は一部始終を見ていましたし、香奈は気絶していたので僕のほうが詳しく話せます」
「じゃあそうしてもらおうか。蓮くん、話してくれ」
 蓮は首肯し、事件について知っていることを全て話した。その日は二人で学校に残って勉強していたこと。事件の起こった場所と大体の時刻。その事件が連続通り魔事件で、同じ日に何人か殺された事。そして、香奈が死ぬ瞬間の事。蓮が話を終えると、リビングにはしばし静寂が降りた。黙り込んでいる男の目を真っ直ぐに見据えて、蓮は再び口を開く。
「おじさん、僕達はあなたの質問に答えました。今度は僕から質問させてくれませんか?」
「ああ、別にかまわないよ」
 男は相変わらず重苦しい顔のままで頷いた。
「では聞きます。あなたはいったい何者ですか?」
 男はここにきてようやくその表情を崩した。しかし、口の片端を上げて笑う男が纏う空気は逆に重く、冷たくなっていく。香奈はいつの間にか座っていた椅子を離れて、蓮の側に移っていた。
「……どういう意味かな?」
「そのままの意味です。僕達はあなたの事を何も知らない。あなたの名前も、あなたが何故倒れていたのかも、何故僕達にこんな質問をしなければならないのかも」
蓮と男が睨み合う横で、香奈はただ子犬のように身を縮めている。
「説明、してくれますか?」
 男は無言で椅子から立ち上がり、二人から離れて庭の見える窓の側まで移動した。
「私は逃げていたのだ」
 蓮達に背中を向けたままで、男は蓮の問いに答えだした。
「私はある組織に所属しているんだ。ところが、任務の途中で何者かの襲撃を受けてしまってね。なんとか退けたものの、こちらもかなりのダメージを受けて倒れてしまった。そこで君達に助けられた」
「ということは、その組織というのは幽霊に関係したものなんですか?」
「ああ、組織の目的は全ての霊を統率することさ。だから新しく霊になった者がいたら、その情報を組織のデータベースに登録するのさ」
「よくわかんないけど、要するに役所みたいなもの?」
 振り向いた男の顔が幾分穏やかになっていたことで、少しだけ緊張の解けた香奈が口を開いた。
「ちょっと違うけど、まぁそんなようなものさ」
「任務、というのは?」
「それは機密事項だ。君に教えるわけにはいかない」
 男の顔がまた少し厳しくなる。蓮は男の言葉を無視して質問を続ける。
「あなたが個人的に恨みをかっているとは考えにくい。襲撃者の目的はあなたの任務を妨害することだとしたら、あなたが新しく霊になった者に会うと困る者がいることになる。僕達のような人があなたの所属している組織の管理下に置かれるのはそんなに重要なことなのですか? 誰かを襲って傷つけなければいけないほど? それともあなたには別の任務でもあるのですか?」
 しばしの沈黙。やがて男は下を向いて項垂れたような姿勢のままで肩を揺らしだし、男の息も笑い声として聞き取れるほどの大きさになっていた。押し殺すように笑い続ける男の様子は何か不気味なものを感じさせるものだった。
「蓮くん、君は本当に頭がいい」
そう言って、男は右手で髪を掻き上げる。窓の外から差し込む朝の光の中で、男の青い瞳がいっそう輝きを増した。


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